医師でありながら医学・医療以外に多才な能力を持つ方は多い。最近では、ラグビー界のヒーローとなった福岡堅樹君(28)が順天堂大学医学部に入学したから、6年後には医師であり一流アスリートである臨床医が排出されることになる。名探偵シャーロック・ホームズを生み出したコナン・ドイルは開業医で推理小説家だ。森鴎外、本名森林太郎は日本陸軍軍医総監、陸軍省医務局長として軍務に服しながら多くの小説を書いた。
私がMLを通じて知り合った三浦由太先生は、整形外科医にして類まれな文筆家であり、その歴史小説は高く評価されている。登山家でもある先生は、忙しい日常臨床の合間を縫って山に登り、その写真をFacebookに載せてくれている。ある時、史跡秋田城跡を訪れて写真をupしてくれたのがこの写真だ。
その説明書きには「東門の近くには古代の水洗トイレが復元されている。キジがいたので撮影したのだが、なかなかこちらを向いてくれない」とあった。ん?古代の水洗トイレ?と私のアハにエクスクラメーションマークが灯った。「古代」と「水洗トイレ」の二文字に解離があり、とても興味が湧いた。ネットでこの二文字を検索すると、黒崎直氏の書いた「水洗トイレは古代にもあった〜トイレ考古学入門〜」がヒットしたので、早速Amazonで取り寄せた。
初版で重版はなかったから中古で買ったのだが、富山大学人文学部教授として黒崎氏が書いたこの本は、著者の情熱が伝わるなかなかの力作だった。考古学という学問の中で、人の排泄場所であるトイレの遺跡を研究することに、かなりの困難さを痛感する著者の迷いが感じられる。しかし、次第に考古学界の常識を覆すような、日本人の排泄の歴史的事実が明らかにされていく。それだけではなく、私にとっては、そこから世界のトイレ事情にも興味を抱かせるインスピレーションを与えてくれる貴重な本でもあった。うんちの話を延々と、しかも考古学的文献として読み進めるのは、胃もたれする感覚が常に付き纏うのだが、医療者としては避けて通れない、いやむしろ知識として吸収すべきものと意を決して読了した。
トイレ考古学
黒崎氏によれば、「人間の排泄行為に関わる事項について、遺構や遺物という考古学的な資料に基づいて復元研究を行う」というのがトイレ考古学の定義だが、この学問は考古学界の中では下ネタとして一段下のレベルと見なされているらしかった。ある程度考古学の対象として扱われるようになったのは1990年代で、まだ高々30年の歴史しかない。ヨーロッパの場合には石造り、レンガ造りの住居跡が長く残っているが、日本の場合には木造であり、多湿な環境の中で朽ち果てることや、遷都や焼き討ちで当時を再現する事が出来にくいのではないかと推測される。
その中で、それがトイレ遺構であるという状況証拠をいくつか探し当てる。一つは籌木(ちゅうぎ)という糞ベラ(糞箆)で、木簡(古代紙の代わりに字を書いた木札)や竹簡をほぐして一枚ずつにして、それを肛門から出た便を擦りきるために使うものだ。つい最近まで、といっても大正、昭和の事だが、田舎では木の葉を使ったり、縄を跨いで排泄物を拭っていたし、この籌木を使っている土地もあって、昔日本軍に徴兵された三等兵が上官から「忠義とはなんぞや!」と聞かれて「籌木とはなんぞや!」と聞かれたと勘違いをしたという笑い話が残っているくらいなので、日本人にとっては馴染みの小道具だったのだと思う。遺構の中でこれが沢山見つかれば、そこはトイレではないかと推測出来る。
籌木:奈良時代のもの(Wikipediaより)
二つ目は、瓜の種。瓜は古来から日本人に食べられていた植物であり、古代の人々はそれを種子のまま食していたようで、土壌に大量に残されていれば、そこはトイレの遺構の可能性が高いということになる。奈良県藤原京跡での発掘調査で、黒崎氏が最初にトイレの遺構ではないかと直感を働かせた時に、その土を分析してくれたのが独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所埋蔵文化財センター遺物調査技術研究室室長、京都大学大学院人間・環境学研究科客員助教授である松井章氏だった。松井氏は、食料関連の種実、花粉、魚の骨、昆虫などが土壌に含まれているかを調べるために、ヨーク大学環境考古学調査会のアンドリュー・ジョーンズらが行なっていた、ウォーター・フローテーション法(回転する水流の力で土壌を分解し、中に含まれた微細な遺物を浮かび上がらせて採取する方法)を採用し、実体顕微鏡で20〜30倍に拡大して検眼することで選別し採取した。
三つ目は、寄生虫卵だ。現代の日本人も世界に知られた「生食文化」を持つ人達だが、古代の人間も多いに生食を楽しんでいたのだと考えられる。あるいは火を完全に通すwell doneではなく、軽く通してその食感を残して食を楽しんでいたのだろう。当然、生野菜、淡水魚や蟹、動物に寄生する寄生虫を食して感染する機会は多かったものと考えられる。トイレ遺構と思われる土壌は、1㎤あたり5000個を超える寄生虫卵濃度を示していて、これは他の土壌には見られない特徴だった。この仕事は共同研究者として花粉分析を担当していた、金原正明氏(奈良教育大学理科教育講座教授)と妻の正子氏(文化財科学研究センター代表理事)が行なった。特に正子氏は病院の臨床検査技師の職にあって、虫卵の検鏡の経験が豊富であったことから生まれた成果であり、本邦初という快挙だった。
この寄生虫卵の研究から、当時の日本人の食生活に関する重要な情報が得られた。
感染経路の違いから寄生虫卵を分類すると、以下のように分けられる。
① 回虫・鞭虫は、土壌の卵に汚染された生野菜(野草)を食べることによって感染
② 肝吸虫は、第二中間宿主であるコイ科を主とする淡水魚を人が捕食することによって感染
③ 横川吸虫は、第二中間宿主であるアユを主とする淡水魚を捕食することによって感染
④ 有鈎あるいは無鈎条虫は、寄生した豚肉・牛肉の不完全な調理による摂取や汚染された生野菜(野草)や飲料水で感染
⑤ 肺吸虫は、第二中間宿主であるカニ類の摂取による感染が主となる
これらを考慮すると、当時の人々が、生野菜(野草)とコイ科・アユを主とする淡水魚を生食か熱処理が不十分な調理で食べていたことがわかるのだ。
興味深いのは、福岡県福岡市の鴻臚館跡から発掘された、8世紀から9世紀初めにかけてのトイレ遺構だ。鴻臚館は、中国大陸からの外交・交易の拠点として外国人使節が滞在する施設であり、トイレも彼らが使う目的で作られている。そこの堆積土からは有(無)鈎条虫卵が高い比率で存在し、豚や猪を常食とする大陸の人たちが排泄したものだと考えられた。ここには、日本人用のトイレが別に設えられていて、男女の別もあったようだとWikipediaに書かれている。
水洗式トイレ
著者は最初に①土坑(汲み取り)式トイレ、②水洗式トイレ、③移動式トイレ、④たれ流し式トイレ、⑤豚トイレの5種類を想定した。科学における推論だ。しかし、三つの要素を持った遺構を探して、その住居跡における位置情報や社会的背景を加味して再構築してみると、日本人が住居として排泄に使ったトイレのパターンは、土坑(汲み取り)式トイレと水洗式トイレの二つであると考え、推論を実証するために研究を重ねていく。詳細は本書に譲るが、平城京、藤原京、長岡京跡を調査研究した結果、いずれの都でも、側溝から水を導いて、排泄物を側溝に再び流す仕組みが当たり前のように行われていたという事実に驚く。導いた水の流れを一時的に金隠しの板で止めて、排泄した後に溜めて増やした水を一気に流して排泄物を流す仕組みなどは、今の水洗便所と同じやり方でさらに驚く。
しかし、こうした水洗式トイレを都のあちこちで作って利用したため、溝が排泄物で汚れ、水利が損なわれることになってしまった。その結果、815年(弘仁6年)「宮中の諸氏、諸家、あるいは垣をうがち水を引き、あるいは水を塞いで途を浸す。宜しく諸氏に仰せ。皆修営せしむべし。流水を家内に引くを責めず。ただ、汚穢を墻外に露すを禁ず。よってすべからく穴ごとに樋を置き水を通すべし」との太政官符が発布された。まだこの時代に都市計画はなかった。
もちろん、おまるに排泄して肥溜に捨てる、土坑式トイレも多くあって、これは世界中でやられていた方法だ。漢語では虎子(こし)、彫木(えりき)、褻器(せっき)、清器(せいき)と書き、和語ではお丸、お虎子(おまる)、御丸、丸、おおつぼ(大壺)、ひ(樋)、ひのはこ(樋筥)、しのはこ(私筥、清器、尿筥)、と、おまる便器をいろいろな呼び名で呼んでいる。おまる文化の長い中国では「馬桶」といって主に女性用の尿瓶としてつい最近までその伝統が続いていたようだ。
(資料3から)
(次号7月号に続く)
<資料>
- 1) 黒崎直:
- トイレは古代にもあった(トイレ考古学入門); 吉川弘文館, 2009.
- 2) 鴻臚館:
- https://bit.ly/34dbqYF
- 3) https://bit.ly/3bOhUla