ドクタープロフィール
神津 仁 院長
 
1999年 世田谷区医師会副会長就任
2000年 世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年 日本臨床内科医会理事就任
2004年 日本医師会代議員就任
2006年 NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年 昭和大学客員教授就任


1950年 長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年 日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年 米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年 特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年 神津内科クリニック開業。
2009年9月号
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再び韓国へ、親孝行と思って車イスで両親を連れて旅する -Ⅰ-

 ここのところ韓国へ旅行する機会がなかったが、91歳になる父親が「死ぬ前に一度韓国とやらに行きたい」というので、5月の連休に企画していた。ところがあの新型インフルエンザ騒ぎだ。厚生労働省の対応がバタバタとして、どうやら飛行場での思いがけない長時間の滞留を余儀なくされるかもしれないというので、やむなくキャンセルした。その時に、じゃ夏休みには連れて行くから、と約束した手前、今回は何が何でも連れて行きたいという気持ちがあった。

 韓国に対する考えは、我々の世代と父親たちの年代とはだいぶ違っていた。「いた」と過去形にしたのは、今回のこの旅行で、その違いを払拭することができて、父母の韓国に対する歴史観を良い方に変化させる事が出来たからだ。私の母親にしても「朝鮮人蔑視」という、かつての植民地政策に対する日本人優位論(これはまた戦前の日本のジャーナリズムや国家の姿勢にも影響されたものであった)に与していて、「昔は、アイゴー、アイゴーってうるさく泣いて見苦しかった」「子供の頃は、チョウセンチョウセンイウテバカニスルナ!って朝鮮人の子がいってたね」などと、まるで日本人とは違う劣等人民だといわんばかりの感覚を持っていた。ちょっと話はそれるが、私がアメリカにいた時にも感じたのだが、「Bye American !」という標語を付けていた車は女性が多かったし、日本でもそうだろう。世界中の母親たちは、家庭を守り、子供を育て、彼女たちが生きているその社会の中で成功してもらいたいと考えているのだから、元々女性は保守的なのだと思う。
さて話を元に戻そう。同じく父親にしても、国家戦略としての戦争に加担し、支配者としての大東亜共栄圏宗主国の軍医中尉であったという体験から、「朝鮮は日本の領土だったんだよ」「朝鮮なんて国にわざわざ行く気がしれない」と、私と家内の頻回の韓国旅行を貶していたのだ。それが、年をとって長旅は出来ない(両親は40才台からヨーロッパ各国、エジプト、ギリシャ、クイーンエリザベス号での船旅など旅行三昧の日々を過ごしてきた)と分かってきたらしく、我々のお供に連れて行って欲しいと思い始めたのがここ2年ほどだった。家内の韓国趣味がかなりの伝染力であったこともその理由だろうが、ソウルオリンピック、サッカーワールドカップを経て、次第に国力を増してきた韓国に、日本の国民が一目置くようになったのも事実だ。
韓国の人口は4,833万人、首都ソウルの人口は1,000万人だが、首都圏という交通・社会活動を含めた定義では、東京が3,111万人で第1位、次いでニューヨークが2,786万人、ソウルが2,245万人と第3位であるから大したものだ。ちなみに、北京が981万人で26位、ロンドンが933万人で27位であるから、都市機能としての世界のナンバー3との認識を新たにしないといけない。「ソウル周辺に、韓国の人口の半分が住んでいます」と教えてくれたのは模範タクシーの運転手のリンさんだった。日本でも、全人口の4分の1が首都圏に住んでいることになる。韓国は正式名が大韓民国。1946年に独立しているから、日本より先にアメリカの植民地支配から脱したことになる。ちなみに日本は1945年に敗戦を迎え、アメリカ駐留軍支配がサンフランシスコ講和条約を締結する1952年まで続いた。この講和条約が締結された4月28日は日本の独立記念日である。我々の結婚記念日、息子夫婦の結婚記念日が、奇しくもこの日であることは何かの因縁を感じる。
韓国はその地政学的な状況ゆえに、西は大陸の中国列強から、東は日本からの侵略に度々脅威を受けている。モンゴルからの間接的な脅威は長く続き、韓国歴史ドラマにはその時代背景がよく描かれているので興味深い。国境を越えて中国に商団を送ったり、国内の支配勢力と中国との政治的な駆け引きや同盟関係を結ぶのに大変苦労した時代でもある。日本の海賊、豊臣秀吉の2万の水軍にも悩まされていた。3,800人の軍勢で13回もの海上での戦いを征した李舜臣将軍は英雄になっている。その後1910年に日本に併合され1946年の独立へと繋がるが、その後も韓国の経済は最貧国に近い状況が長く続いた。政治的には軍事クーデターによる軍事政権が続き、民主的・平和的な政権交代が実現したのはやっと1997年の金大中大統領の時だった。第二次世界大戦前後、朝鮮戦争前後の混乱と経済成長を実現するための産みの苦しみは、日本の戦後復興にも似て大変な努力が要った。韓国ドラマ「英雄時代(全70話)」http://blog.livedoor.jp/creampan2006/archives/51109791.htmlに詳しい。
我々日本人が知ることになった韓国のいろいろな背景については、多くは韓国のドラマや映画を通じて理解してきたものだ。韓国政府は、これらのメディアを統制し、国策として映画製作のための教育や製作費に国費を投じてきた。今その結果が出ようとしている。韓国とは、韓国文化とは何ものであるかを、きちんとした技術を持って描き出すことができるようになったのは、こうした映画産業育成政策の賜物であろう。同時に、日本の映画やメディア、歌などを視聴することを禁じていた。1998年まで、日本のCD一枚すら韓国では手に入らなかったという。インターネットから以下にその内容を引用してみる。

 

韓国政府による日本文化開放政策(概要)

1.1次開放(98年10月20日)
○映画及びビデオ
・日韓共同製作作品、4大国際映画祭(カンヌ、ベニス、ベルリン、アカデミー)受賞作品を開放。ビデオは劇場で公開されたものにつき開放。
○出版
・日本語版出版漫画及び漫画雑誌を開放。

2.第2次開放(99年9月10日)
○映画及びビデオ
・劇場用アニメを除く映画の大幅開放(70大映画祭入賞作、もしくは年齢制限のない作品(「全体観覧可」に分類される作品)を開放)。
・ビデオは劇場で公開されたものにつき開放。
○歌謡公演
・2000席以下の室内公演場での歌謡公演を開放。
(但し、公演の実況放送、レコードやビデオの販売は不可。)

3.第3次開放(2000年6月27日)
○映画及びビデオ
・「18歳未満観覧不可」の作品以外は全て開放(劇場用アニメ除く)。
・国際映画祭で受賞した劇場用アニメを開放。
・ビデオは劇場で公開されたものにつき開放。
○歌謡公演、レコード
・歌謡公演は、室内外の区別なく全面開放。
・レコードは、日本語による歌以外(演奏のみ、第三国語・韓国語翻訳による)を開放。
○ゲームソフト
・ゲーム機用テレビゲームソフト以外のゲームソフト(パソコンゲーム、オンラインゲーム、ゲームセンター用のゲーム等)を開放。
○放送
・全ての放送媒体によるスポーツ、ドキュメンタリー、報道番組の放送を開放。
・映画のテレビ放映については、ケーブル・テレビ、衛星放送において第二次開放の基準を満たす劇場公開された作品を開放。

4.第4次開放(2004年1月1日より実施予定)
【2003年9月に開放が決定された部分】
○映画及びビデオ
・映画は全て開放。
・ビデオは国内で公開されたものにつき開放。
○レコード(CD、テープ等)
・レコード(CD、テープ等)販売は日本語による歌を含め全て開放。
○ ゲームソフト
・ゲーム機用テレビゲームソフトを含め全て開放。
【2003年12月に開放が決定された部分】
○放送
・ケーブル・衛星放送
-生活情報・教養番組、映画・劇場用アニメ(国内で公開されたもののみ)、日本語歌謡の放送を全て開放。
-ドラマは「12歳観覧可」の番組、共同制作ドラマにつき放送を開放。
-その他の娯楽番組(バラエティ、トークショー等)の放送は未開放。
・地上波放送
-生活情報・教養番組、映画(国内で公開されたもののみ)の放送を全て開放。
-日本語歌謡の放送は韓国国内で公演されたもの、韓国の番組へ出演する場合につき開放。
-ドラマは共同制作ドラマにつき放送を開放。
-劇場用アニメ、その他の娯楽番組(バラエティ、トークショー等)の放送は未開放。
○劇場用アニメ
・2006年に全て開放。

 

 こうして徐々に日本文化は韓国に吸収されていき、その代わりに韓国文化も日本にきちんとした形で受け入れられるようになったのだ。今の状況は、とても良い。2~3年前までは、日本語を話すタクシーの運転手を探すのは結構大変だった。しかし、今回の旅行で乗ったタクシーの運転手さんは、100%カタコトの日本語を喋ることができた。異文化交流というのは、こうした副産物をたくさん実らせるものなのだろう。
今回、キンポ空港からソウル市街に入るまでの道すがら、何かが違うと感じていた。今までであれば、タクシーも乗用車も我先にともの凄い勢いで走っていた。車間は開けずに、すれすれのところを、よくまあこんなに走れるものだと感心するくらいに肝を冷やす運転手のオンパレードだった。とてもこれではレンタカーを借りてドライブするなど考えるのも恐ろしい交通状況だった。それが今回の旅行では、制限速度を守って、車間距離を守って、ずいぶんと交通ルールが浸透したように見受けられた。今回久しぶりに再会した中央大学病院眼科教授のCho先生によれば「韓国政府がだいぶこの件に関しては国民に指導をしました。罰則も多くなりましたが、韓国人のドライバーズマインドが変わってきたことが大きいですね」とのことだった。
日本もそうだったが、国が富み、生活が改善されることによって、人の心も変わり、成熟した社会へと変貌するのだということが、見事に具現されていて興味深い。

 

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