おかしなことが多い世の中をどうにかせんと・・・
■医と法の間で揺れる「死」
臓器移植法案Aが国会を通った。年齢制限の撤廃を行い、脳死を人の死として認め、日本の臓器移植を推進する方向へ舵を切ったことになる。まだその事実が報道されているだけで特別の反応が出ていないが、本来であれば日本医師会がその事実に対して、医療医学の領域で今後どのような影響が波及するのかを説明しなければならない。日本医学会の会頭はNHKの時事解説コーナーで分かりやすく国民に対してその是非を問いかける必要がある。何故、医療の専門家である医師の集団、組織が臓器移植という医療マターを自分たちで解決せず、「移植法」という政治的コンセンサスに身を任せようとするのか、説明する責任があるだろう。世界的に見ても、法律は医の倫理を超えるものではなく、逆に医の倫理は法律を超えるものと位置づけられている。だから、戦時下であっても医師は敵味方の別なくどの将兵も救うことが出来るし、患者の尊厳ある死を看取ることが可能なのである。臓器移植のためにという目的で医師が軽々に死亡診断書を書くとは思えない。生きることと同じく、その人らしく死ぬことに対して、医師は最後までその人の傍にい続ける。医学的な死が「心肺停止、脳幹反応なし」という判断基準を変えることはあり得ないし、初七日や四十九日といった日本の文化的な抒情性を失うことはあり得ない。
10年以上前になるが、当時三菱化学生命科学研究所生命科学研究室室長であった米本昌平先生が「立法にもたれかかる医」という題で、毎日新聞に「脳死移植」に関する評論を書いていた。その記事に感銘を受け、米本先生に早速電話をかけて、世田谷区若手医師の会で講演をして頂けないかとお願いしたことがある。
先生は快く引き受けてくださって、世田谷区三軒茶屋のキャロットタワーの展望レストランでじっくりとお話を聞いたのを昨日のように思い出す。その時、先生は「いかに委員会の答申を参考にするとはいえ、全くの素人集団である『立法府』の議員が法案としての『脳死』を決めてしまうということを日本の医師たちはどうしてだまって見ているのか理解に苦しむ。先進国といわれる国の中で、こんな議論をしているのは日本だけである。自律できない医師集団は、まるで『立法にもたれかかっている』としか見えない。Medical professionがしっかりしていれば、もともとそんな議論をすること自体無意味なのである」と我々に、日本医師会には正当性(legitimacy)、権威(authority)、能力(capability)といった社会のルール作りに必要な三要素が決定的に欠けている、と痛烈に批判してみせてくれた。
■財務官僚の詭弁
最近、財務省の高級官僚が「厚生労働省に任せられないので、財務省そのものが日本の医療の舵取りをしないといけない」と堂々と公言しているのを、m3.com「医療維新」という医療系マスコミのインタビューで読んで驚いてしまった。
財務省主計局主査(厚生労働第三係)の八幡(はば)道典氏が語るところでは「例えば医師不足について、厚生労働省は本当に必要なところに医師を増やす仕組みを考えてこなかった。単に医学部の定員を増やしても、ひたすら『穴の開いた風呂桶』に水を注ぐようなものです。『それでは仕方がないのではないか』という報道をしていた日経新聞や読売新聞などは『政府として何かを言わなければいけない』と思っていたようです。これまでは財源論が中心で、医療政策まではあまり取り上げてこなかったわけですが、『財政審が今回建議をまとめたのは一定の進歩』といっている人は多いですね。病院勤務医の方々にも、財政審もヒアリングしたり、われわれもこれまで直接意見を聞いたりしていますが、『医療の現場の問題に財務省や財政審が関心を持っている』とプラスに受け止めているのでは」という。
この妙に自信ありげな態度は何なのだろうか。どうやら、財務省の担当者は骨太の方針を進める経済界の一部やアメリカ資本とそのシンパである医療機関の経営者や研究者たちにインタビューを重ねているらしく、若い勤務医たちが好んで傾聴するアメリカ医療を妄信するカリスマ的な医師たちの言葉を信じているようだ。その経営者たちはといえば、実は同族経営がうまくいかずに金融資本の傘下に駆け込んだ人たちという。財務省が「医療の現場」という場合には、どうやらこうした病院の現場のことをさすようだ。それは日本の医療全体のことではなさそうである。
さて、ここで八幡氏がまたおかしなことを話すのだが、読者にはその比喩が理解できるだろうか? 「子供がお小遣い帳を付ける場合と同じで、親からお金を借りたとする。お小遣いを使う際に『これは親に返さなくてはいけない分だから別』とだけ主張しても、『それはもともとは親から借りているお金だろう』ということです」 これは、財務省が勤務医と開業医の給与格差があることから、開業医の所得を減らしていく、と6月3日の財政制度等審議会が出した「平成22年度予算編成の基本的考え方について」という建議の中で提唱したことに対して、日本医師会が「財政審は個人事業主である開業医(個人)の収支差額が病院勤務医の2.0倍であると指摘している。しかし開業医(個人)は、収支差額の中から退職金相当額を留保し、社会保険料、事業にかかわる税金を支払い、借入金の返済も行う。仮に比較するとしても、『手取り年収』で比較すべきである」と反論したことに対するコメントなのだ。加えてコメントすれば、勤務医の給与はよっぽどのことがなければその額が変動することはあり得ない。患者が少なくてももらえるものはもらえる。定期昇給という日本の国の美徳も加わって、ある意味安定した給与が保障されている。しかし開業医は、開業当初は集患もうまくいかないことが多いので、今までの勤務医の時に貯めた貯金を切り崩して生活しなければならない。税金を払うどころか戻ってきて、私などは「税金が払えるようになりたい!」と叫んだほどだ。患者が根付いて経営もうまくいくようになっても、例年の診療報酬の切り下げや通院抑制で青息吐息だ。毎年の医業収入もかなり上がり下がりがあって、とても「安定した収入」とはいえない。それを、ここまで馬鹿にした比喩で単純化されてはたまらない。ある意味、財務官僚は自分自身を思考停止状態にして、なんとか自分たちの論理を押し通そうとしているように思える。
日本医師会が出しているデータを見てみよう。
この図の解説には「手取り年収を計算し、比較してみると開業医の『手取り年収』は平均値で中小企業の社長以下、40~44歳でやや上回る程度であった。勤務医の『手取り年収』は大企業の記者よりやや高く、金融業などの部長クラスをやや下回る水準であった。勤務医の年収が低すぎることを考慮すべきである」とある。データというものがどこまで信頼できるかはさておいて、今の医師がそんなに群を抜いて高い収入を得ているわけではないことがわかる。しかし、これはあくまで断面的・断片的な平均値であり、後で述べるようないろいろなファクターを考慮していない数値である。勤務医の給与がある程度安定した所得であるのに対して、開業医の所得は不安定である。退職金を誰かが払ってくれるというわけでもない。医療法人の場合には、医療機関としての全体の収入が減れば、経営者としての自己の給与を削って従業員の給与資金を確保しなければならない。今の時代の医療法人経営は厳しいようだ。重ねていえば、勤務医は従業員であり、開業医は経営者である。
一般的に経営権のある代表者たる者が、従業員より給与が低いことはあり得ない。それだけの責任があり、能力が評価される社会は健全な社会といえる。以前、診療中に年配の患者さんと話をしていて、「あまり高い服は買えない」と率直な感想を述べたら、「お医者さんがそんなことをいってはいけません」とたしなめられた。武士は食わねど高楊枝、社会的な地位もあり尊敬されているお医者さんはお金持ちであるべきで、普通の人とは違っていて当然だし、そうあって欲しい。その余裕があるから、私たち患者を丁寧に診てくれていると信じたい、そういいたげだった。
■どちら側から見たかで見え方が違う
そういえば、評論家・コラムニストの勝谷誠彦氏(兵庫県尼崎市出身。地元の開業医の家に育つ。灘中学校・高等学校に進学し生徒会長を務める。早稲田大学を経て株式会社文芸春秋入社。現在フリーライター・コラムニスト)が6月7日に開催された第2回全国医師連盟集会で、「日本の医療を斬る - 全国医師連盟に期待すること-」というテーマで1時間強、記念講演を行ったが、そのなかでこんなことをいっていた(So-net M3橋本佳子記者の記事から引用)。
「確かに親は月末には徹夜でレセプトを書いていたが、僕が子供の頃、開業医は非常に金持ちだった。医師が特別な時代があった。一方、今は初期投資をして開業しても、元が取れるか取れないかという時代。しかし、国民の中にはこうした『お医者さん=お金持ち』という深層心理が残っている。その時代を知っている人は子供や孫にそのことを話したりもする。世間の目は容易には変わらないことを理解してほしい」
勝谷氏の父上は医師で、「よく患者さんを叱っていた」というから、地域開業医としてしっかりとした信念を持って診療をされていたようだ。自家用車を持つ人などあまりいなかった時代に、私の父もタイヤの白いダットサンを買って得意げに走り回っていたが、勝谷氏のご両親は米国製の車に乗って神戸のダンスホールまで遊びに行っていたとのこと。今でも医師会の先生方は車好きな人が多くて、それこそ高級外車がずらりと並ぶ。しかし、そんな高級車で往診に行くわけではない。
「開業医は、その辺りの後ろめたさをずっと感じながら、やってきているのではないか。こうしたことを気にすることが、実は日本の医療の様々なところに関係しているのではないか。『妊婦のたらい回し』などのヒステリックなマスコミ報道の根底にも、人間の嫉妬、あえて言えば下劣な感情があるのではないか。それを怒っても仕方がないことで、どう解消していくかがこれからの医師と患者・国民との関係を考える上で重要なのではないか」と勝谷氏は単刀直入に話す。
ここらへんの心理的な屈折をあえて拡大させる鏡をマスコミに関係する人たちは持っているのだろう。私の家の前のお宅はNHKの職員だが、ジャガーに乗っている。私の弟は建設会社の平社員から自分の会社を興して、毎年ベンツの最も高い高級車を買い替えていた。ヨット乗りの仲間のK氏は電通の幹部社員だが、私には買えないクラスのベンツの二人乗りのスポーツカーに乗っているが、誰も「努力に見合った代償があるのだろう」と思う以上の特別視はしない。だからといって、NHK職員の自家用車調べもしないし、各社新聞平勤務記者の収入と論説委員や新聞社役員との収入比較もしない。まあ、勝手にしたらいい。世の中、おかしな事が多すぎる。
■医師の側からもっと話をした方がよい
勝田氏がいうように、もう少し医師は語った方がいいのだろう。私も、今回はこの「勤務医と開業医の給与所得比較」に対して少しいいたいことがあったのでコラム風に書いてみた。知人の記者は、一般の人はそうは思わないのでは、とコメントしてくれたが、これを読んだ妻は拍手してくれた。見方はそれぞれだが、今の開業医の置かれている厳しい現状を見聞きするだけでも相互理解が進むのではないかと思う。
【地域医療を支える開業医は日本医師会に失望している】
最近の勤務医と開業医の給与所得の報道を見ていておかしなことに気付く。開業医の所得を下げて勤務医の所得を上げよ、といわんばかりの報道だ。おそらく平成22年度に診療報酬改定があるので、こうした政府・財務省側に都合のいいような報道を官製資料としてリリースしているのだろう。社会保障費を毎年2200億円削減する、というのが小泉政権の骨太の方針だったから、政府官僚もあの手この手で国民を味方につけようとしているのだろうと思う。しかし、弁護士事務所に勤めている平弁護士は給与が低いのに毎日過酷な時間を費やしているのだから、弁護士事務所を経営している経験も実績もある開業弁護士の給与と比較すると不公平なので、高い給与をもらっている弁護士の所得を下げろなどとは誰もいわない。日本では、医療が社会保障の一部として医療国営になっているので、国が大きな経済介入を行い、そこから出ている官製情報をそのまま無批判にマスコミが取り上げるのでおかしなことになる。しかし、最近はすでに国は保険医療に対しては30%を切る支出しかしていない。保険者と国民がその他の部分を支出していて、日本国民は世界でも稀にみる「窓口負担」言い換えれば「自己負担」を強いられている。日本国民はもっと怒ったほうがいいし、さらにこれを下げるのは国の体裁としても如何なものかと思う。
しかし、開業医・勤務医給与所得問題のおかしさはまた違った観点にもある。経験のある優秀な野球選手であれば、マイナーリーグからメジャーに移れば給与は上がるはずだ。民放のアナウンサーが局アナであれば給与は安いが、経験のある優秀なアナウンサーであれば、フリーになって自分でオファーを取れるようになると収入は上がる。事務所を自分でつくれば、このフリーアナウンサーは初期投資が必要になる。局アナになるのに借金をして入局する人はいないが、自己開業するにはかなりの出費が必要だろう。だから、局アナよりもずいぶんと高給取りになっても誰も文句をいう人はいない。有名な政治評論家を講演会の講師に呼ぶと、1時間で100万円を要求される。彼の事務所には多くのスタッフが働いていて、情報を収集し整理して、彼が分析しやすいようにお膳立てをする。テレビやラジオへの出演、新聞や週刊誌への取材や執筆の秘書業務も大変だと分かっているから、その100万円はそのために必要なのだと、多少の値引き交渉をしても支払うのに文句をいう人はいない。しかし、開業医が勤務医より収入が多いというとテレビも新聞も人々は「けしからん」という。どうしてなのだろう。
局アナに志願するのに借金をする人はいないといったが、病院勤務医も一緒だ。病院勤務をするのに借金をする人はいない。当たり前のことだ。一般の人には分かりにくいが、ピラミッド型になっている病院勤務医のかなりの部分は若い未熟な道半ばの医師である。給与も安い。部長クラス、院長クラスになれば給与はずっと良くなる。開業医の前身はその殆どが病院の優秀なスタッフ(優秀でない人は少ない)であり、勤務医であった。専門的な医療を専ら行ってきた医師であるが、開業するに当たってはプライマリ・ケアを学び、地域医療を学ぶ広い視野をもつべく努力をして、病院という「箱物医療」から、地域医療を支える成熟した視野の広い医師になるといってよい。ただし、フリーアナウンサーが事務所を構えるのと同じく、クリニックや病院、施設を造るために借金が必要だ。この決断と勇気、借金を返済する能力のある者だけが生き残る社会でもある。
私も開業前には8,000万円の借金をしてクリニックを立ち上げた。開業後16年経つが、ようやくあと2年ほどで開業時の借金が返し終える予定だ。もちろん、住宅ローンは75歳まであと15年ある。私は内科医として一所懸命地域の患者さんを診てきた。地域で頼りになる医師として評判もよく、医学生の教育や研修医の研修を積極的に受け入れてきた。スタッフ一同、常に患者さんに快く受診して頂けるようにきめ細かな対応を心掛けているため、評判も良い。評判の良いクリニックを運営するためには、優秀なスタッフを雇用し、クリニックの備品や器械のメンテナンスを行い、古くなった医療器具を買い替えたり、薬品を購入したり、検査会社に検査代金を支払ったり、多くの維持管理費が必要になる。そのためには、ある程度の収入が確保されなければならない。何もこうした経費の心配のいらない勤務医の給与と比較されてはたまらない。今、日本中のクリニックと同様に私のクリニックも自転車操業だ。毎月銀行と交渉する家内は「どうして開業医の収入を減らしていいなどと日本医師会も国もいうのか分からない。このまま収入が少なくなれば医業を続けていくのは無理」といっている。そんなことにはならないとは思うが、地域医療を支えている我々の気持ちが折れないように、当り前の医療が提供できるように、有識者といわれる人たちには是非ご理解いただきたいと思う。 |