医の心-先輩医師に学ぶⅢ
新人医師にとって、最初についてくれた先輩医師は一生忘れられないものだ。私についてくれた先輩医師は、陸上部出身の180cm以上ある大きな人だった。そして大変真面目で、仕事の丁寧な好青年だった。
26歳の自分にとって少し年上というだけだが、まだ学生気分の抜けない新人医師の目には、全て教わることばかりのすでに立派な医師と映った。カルテの書き方、検査伝票の出し方、採血、注射のやり方から、救急医療のABC、気管カニューレ挿入から心マッサージ、死の宣告、遺族への心遣い、病理解剖の承諾を請う場面での言葉の選び方など、すべて最初に習うのが、この先輩医師からである。物静かな、しかし圧倒的な安心感のあるK医師の傍にいられたことで、私はかなり成長したのだと思う。最初にどんな医師に出会うかは、その医師にとっては運命ともいえる。それだけが医師の人生を支えるわけではないが、かなり大きな影響をもたらすことは確かだ。
私はヨット部のキャプテンをやり、東日本医科学生体育大会ではスナイプ級のチャンピオンだったから、仲間で酒を酌み交わすことも多かった。昔の医局というところもクラブ活動の延長のような雰囲気があり、医局員が集まればすぐに宴会になった。K医師は体格も大きく、大酒を飲んでも乱れることはなかったが、夜を徹して飲んで朝から勤務することも珍しくなかった。学生時代は槍投げや砲丸投げをしていたというから、かなりの運動量だ。しかし医局に入ると勤務時間はほぼ24時間で運動する時間はない。その上毎日の飲酒で肥満傾向になっていた。
ある日のこと、K医師は出勤してこなかった。数日が過ぎて、医局の先輩たちが慌てふためいて連絡をしていた。「Kが出勤して来ないので、大家さんに頼んで部屋を見てもらったら、死んでたらしい」と。 えっ? その時は自分の耳が信じられなかった。結局、頓死の原因は病理解剖で冠動脈が閉塞したためと分かった。今でいえば、急性冠症候群だったのだろう。K医師の部屋の畳の下には、それまでアルバイトで稼いだ一万円札がびっしりと敷き詰められていたという。健康に自信のあったK医師は、若い心身の限界点まで全力で到達してしまったのだと思う。生きていれば、素晴らしい医師になっていただろうと思うと残念でたまらない。 今研修している若い医師たちも、健康に過剰な自信を持つことなく、きちんと睡眠を取り、運動もして、たばこは吸わず、飲酒も程ほどにして、しっかりと医師としての技術と心を学んで欲しい。自分の命を大切にすることをもって、患者の命の大切さを思うことが大切なのではないだろうか。
成増厚生病院精神医学研究所所長、新福尚武
「私が初めに熱中したのは、うつ病の生物学的な研究だったんですね。うつ病患者の示す自律機能や、体液の変化などを広く一所懸命調べて、論文を書いて、当時有名だったWeil-Mahlherbe博士に送りましたところ、大変ほめられ励まされて、大いに自信を持ったんですね。
私は当時、うつ病はあと20年たったら分かると、そう信じていましたね。そして臆面もなく公の席でそう公言していました。それが1950年頃のことです。それから40年経ちましたがさっぱり分かっていない。むしろだんだん問題が深みにはまっていく感じですね。今日ではうつ病のスペクトルが広がり、バリエーションが大きくなってつかみどころがない」
「患者と医者は対等ですけれども、全くの対等だったら医者として何も出来ないのですね。患者よりは医学的な知識を持ち、医学的な技術に秀でている。ですからただ患者にヒューメインに接するというだけではなくて、場合によっては自分の考えに従わせていく、そういう立場でもある。
しかし、医者がすべて万能かと言うと全然万能ではない。相手の患者さんよりはものをよく知り、現象のメカニズムについて理解が深いけれども、知りつくしているわけではない。極端に言えば五十歩百歩の違いでしかないんです。それにもかかわらず、向こうからいろいろ手助けを求められれば、やらなければいけない。ここに私は普通の人間関係とは違った大変複雑微妙な人間関係があると思うんです」
「基礎研究はもちろん重要ですが、臨床医にとって重要なのは、それがもっと身近になる臨床の問題です。その問題は単純ではないですから、研究もすぐには成果が上がらないかもしれない。あまり華々しくないかもしれない。しかし、ここにいちばん大事なことがあるんですね。
臨床で大切なのは、忠実に患者全体の動きを見ること、それもただ物として見るのでなく、人間として接しながらかかわっていくことですね。私がなぜこういうことを申し上げたいかと申しますと、年をとったせいか、私は今の若い医師、研究者の中には、人間に関するいろいろなことを一種のマテリアルと見る、外的な材料、判断資料として見るようなところがあり、本末が転倒しているんですね。精神医学では特にそうであってはならない。患者さんの全人格を中心に考えるという訓練や指導が足りないと感ずることが時々ございます」
「医師は生涯努めていって前進をしなければいけませんが、その時、医師には個性的なものやその人の人間観、疾病観、あるいは老人観というものが成長し、それを反映してそれぞれの医師像が研磨されるのだと思います。技術的なものではあまり個人差がないでしょうけれども、生き方とか考え方とか患者への接し方とかでは、その人らしいものが成長し豊かになる。そうすると医者たるものが本当に一つの人格としてただの技術屋ではなくなるのではないかと思うんですね」
東京都老人医療センター名誉院長、東京大学名誉教授、豊倉康夫
「当時日本では、神経内科学はまだ確立しておりませんで、また私が教授を拝命したのは実は41歳という若さなのです。年齢もさることながら、神経内科学の臨床に関しては外国の教科書を開いてみますと、見たことのない病気がたくさんありまして、自分自身、恥ずかしくて神経内科の教授などとはとうてい言えないと悩みに悩みました。
結局、悩んだ末に、こうなったら新入医局員と一緒に、ゼロから始める以外に手はないじゃないかと。そこで自分を励ますために、大きな紙に次のようなことを書いて教室の標語にしたんです。『焦らず、背伸びせず、100年後のために』。ですから100年後の日本の神経内科学のために頑張ろうと思いました」
「よく考えていただきたいのは、昏睡状態でもすべての感覚のインパルス、特に聴覚だとか、圧覚とか、触覚は全部脳に伝わっているのです。これらのインプットを統合して、アウトプット、つまり何らかの反応の形にはなかなか表出できないだけなのです。
ですから、昏睡状態になった患者さんに対する医師の態度は重大だと思います。患者さんは全部分かっているのだけれども、頭の中でまとめて、アウトプットとしての反応ができないというだけなのです。ですから、『もうだめだ』とか、否定的なことは一切言ってはいけない」
「実は私が33歳の時ですが、ペニシリンショックで、ほとんど臨死体験といってもよい体験をいたしました。その時の体験から、周囲の人たちはもう完全にだめだと思っていたらしいのに、自分では完全に意識が戻っていたのです。それで非常にいい気持ちだったのです。極楽状態だった。それで私は人間の死は、動物の死も同じかもしれませんが、生まれた時から一つのプログラムされたものですから、そのプログラムされた死の瞬間はそんなに苦痛であるはずがない、忌み嫌うべきものではないように遺伝子に仕組まれている気がしています」
「私はペニシリンショック以来、遺族に向かって『ご臨終でございます』という言葉は言わなかったのです。患者さんの手を力いっぱい握りしめまして、『よく頑張りましたね』といって、手を合わせて患者さんにお辞儀をする、それから遺族のほうに向かって、今度は深々と頭を下げるだけで死の宣告ができるわけですね。『ご臨終です』という医師の言葉は、たとえ心停止の死者にも聴こえているはずだと思うようになったからです」
「臨床医としていろいろ心掛けるべきことについて二つだけ申し上げたいのです。『私はただの臨床家ですから』とか、『どうせ臨床家ですから』という、一見卑下したような言葉は絶対に使ってはならない。それは臨床医学に対する冒涜ですよ。あらゆるサイエンスのなかで、臨床医学ほど高度の難しい学問はない。それを実践し、研究しているのだという確固とした信念と誇りを臨床家は持つべきと思います」
「それからもう一つは、大学退官の時の最終講義で言ったことですけれども、一度見てもあまり意味をつけるな。ただ記憶しておけ。二度見たら何かあると思え。それがほとんどの教科書に書いてあることかもしれないけれども、まれにはだれも気がついていないことがある。三度見たら、それはただごとではない、必ず何ものかであるということを言ったのです。臨床はそういうことなのかもしれませんね」
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