ドクタープロフィール
ドクター神津
神津院長は昭和52年に日本大学医学部を卒業後、同大学第一内科に入局され、その後、神経学教室が新設されると同時に同教室へ移られました。医局長、病棟医長、教育医長を長年勤められ、昭和63年、アメリカのハーネマン大学およびルイジアナ州立大学へ留学。帰国後、特定医療法人佐々木病院(内科部長)を経て、平成5年に神津内科クリニックを開業された。神津院長の活動は多岐にわたり、その動向は常に注目されている。
2005年2月号 -コギト・エルゴ・スム(cogito ergo sum)=我想う故に我あり- backnumberへ
 最近大学の図書館に用事があって行ってきた。丁度試験の時期だったのか、イスは勉強する学生で一杯だった。大学の医局にいた時は、研究やら講義の準備やらで毎日図書館に通っていて、いつも「閉館30分前です」というアナウンスを聞きながら最後に出るのが習慣になっていた。今回もそのアナウンスを聞いて懐かしく思った。
さて、その図書館の1階で久しぶりに放射線技師の長野さんに会った。文献のコピーを裁断機で整えているところで、最初は白髪頭のおじさんがいるな、という感想だった。そして、ふと顔を上げてこちらを見た瞬間に、「あっ、長野さんですよね!」と分かった。不思議なもので、目を見るとその人が蘇る。さっきまで、図書館の事物の中に溶け込んでいて何のシグナルも送っていなかったものが、「私は先生の知っている長野です」という情報を視線と共に送ってきたのだ。これは、初めて会った人には感じないものだ。しかも、20年の歳月が人を別人のように変えているにも関わらず、すっと当時の印象が蘇るのは何故だろう。勿論、長野さんには特別お世話になって、いろいろと無理も聞いてもらったという心に刻まれたものが深いからではあるが、今のこの瞬間の視覚情報に過去の視覚情報が重なって、しかも脳の中で統合されたために、形は「心象」として形而上学的に認識されたのだと解釈できないだろうか。目という脳神経系の突起物を介してこうした瞬時の情報伝達が行われることに、人間の不思議を知る思いがする。

先日、仕事場に行く時間が少し遅れた。2、3分のことなのだが、自宅から10分の道程が全く違った印象を与えていた。毎日同じ時間に出て同じ時間に仕事場に入ると、必ず出会う人や景色がある。家のドアを開けると出くわす通行人。次の角を曲がってくる自転車に乗った工員さん。カーブミラーに乗ったカラス。環七へ出る通勤の車と交差点を横切るハイヒールのOL。路面電車の踏み切りには、三軒茶屋行きと下高井戸行きが行き交うのが丁度9時2分。待っているのは保育園へ子供を送るお母さん達の自転車。そして環七の左側の歩道を歩いて行くと、スリーアップビルのガラス拭きをしている可愛いビル管理スタッフが「おはようございます!」と声を掛ける。これが毎日の繰り返しの風景なのだが、2、3分家を出るのが遅れただけで、この全ての風景がある日消えてしまっていた。本のページをめくるように、違う風景がそこにはあった。自分の知らない世界がそこにはあって、自分はアナログの世界にいると思っていたのに、実は0か1かのデジタルな世界に生きているのかも知れない、と不思議な感覚を体験した。

今、「死の臨床教育」を研究しているのだが、その過程で養老孟司氏の「死の壁」を読んだ。その中で、細胞は入れ替わっているのに常に変化しない自分が存在するのは奇妙だ、という下りがあった。その考えからいうと、恐らく、私が図書館で会った長野さんは、20年前の長野さんとは違った細胞の集団であり、別人なのだ。しかし、長野さんの視線から放出されるエネルギーとシグナルとは、20年前とまったく変らない長野さんであるということを証明している。脳は、それを知っているのだ。脳神経細胞は生まれた時から入れ替わることのない細胞である。神経ネットワークを作れなかった細胞は欠落していくが、170億個という細胞のうち、20歳から120歳まで一日10万個ずつ減っていっても、36億5千万個で、まだ133億5千万個が残っている計算になる。この133億個の神経ネットワークが、大きなエネルギーとなって、その人を作っていると言っても良い。細胞は別人になっても、形成された「意識」は別人になることはなくて、ずっとその人であり続ける。拉致被害者達が、姿形は別人になっても、その目を見れば、ずっとその人でありつづけたことが分かるはずなのだ。それが「コギト・エルゴ・スム(cogito ergo sum)=我想う故に我あり」なのだと理解した。

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