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「常に地域と共にあり、患者様と共に歩む」
医療法人清和会 ながはら病院
プロフィール
医療法人清和会 ながはら病院
大阪府東大阪市は大阪府では大阪市、堺市といった政令指定都市に次ぐ、3番目の人口を有する中核市で、花園ラグビー場があることから「ラグビーのまち」としても知られている。ながはら病院のある東大阪市長田西は近くを中央大通が横断し、下を大阪市営地下鉄中央線、近鉄けいはんな線が走っているほか、近畿自動車道の東大阪ジャンクションもあり、京都や名古屋、関西国際空港への高速バスも発着するなど、交通の要衝となっている。
ながはら病院は大阪市営地下鉄中央線、近鉄けいはんな線の長田駅から徒歩7分の場所に立地している。2010年4月にリニューアルオープンし、一般病床48床、療養病床(医療)96床の計144床を有している。標榜科目は外科、内科、整形外科、循環器科、消化器科、皮膚科、リハビリテーション科、放射線科で、人工透析にも力を入れている。
今回はながはら病院の長原正幸理事長にお話を伺った。
長原 正幸 理事長 プロフィール
1959年に大阪市中央区で生まれる。1984年医師国家試験合格。1990年に東長原病院(現 ながはら病院)に院長として着任する。2010年にながはら病院に改称する。
日本外科学会認定医、日本消化器外科学会認定医、日本透析医学会専門医など。
病院の沿革
大阪市中央区糸屋町に長原外科医院が9床で開設された。1960年11月のことだ。そして、1968年に大阪市中央区常盤町に移転し、長原病院となる。このとき病床数が46床になり、診療所から病院へと大きくなった。初代院長は長原正幸理事長のお父様だった。
「父は脳神経外科医で、当時の大阪市内で開頭手術ができるのは大阪市立大学医学部附属病院の脳神経外科か長原病院だけだと言われていました。遠くは兵庫県や奈良県、京都府からも救急車で頭部外傷の患者さんがいらしていましたね。かなり広域に救急医療をお引き受けしていました。」
1971年には長原病院の分院として、東長原病院が東大阪市長田西に開設された。これが現在のながはら病院である。そして、医療法人清和会が発足した。
「東大阪エリアでは胃潰瘍の出血事例が多かったにも関わらず、外科手術を積極的にお受けになる医療機関が少なかったんですね。それで本院の方に救急搬送される患者さんが後を絶たず、東大阪市に分院を構えることになりました。」
現在の東大阪市長田西は大阪市営地下鉄中央線、近鉄けいはんな線の長田駅があることから工場やマンションが立ち並び、活気のある街だが、当時はインフラが十分ではなかったという。
2009年に地域がん診療連携拠点病院、2011年に地域災害拠点病院、2012年に地域医療支援病院の指定を受ける。
「地下鉄や近鉄もまだ通ってはおらず、河内平野のど真ん中のこの一帯は田んぼだったんですよ。電気、ガス、水道といったインフラの敷設交渉から始まりました。母が中心になって、色々なところにお願いにあがりましたが、私どものためのインフラが結果として地域のインフラの向上や様々な土地利用に繋がったようですね。当時は本当に田舎でしたよ。開院セレモニーの最中、皆でお祝いをしているときに、近所の農家の方が急病で腹痛を訴えている奥様を軽トラに乗せてやって来られたのですが、慌てておられたようで、そのまま病院の玄関口に突っ込んできたということもありました(笑)。」
東長原病院は70床で開設されたが、1985年の地域医療計画の変更を受け、146床の許可を取る。長原理事長が勤務医生活を終え、当時の長原病院に帰ってきたのは1990年のことである。
「東大阪市はまだ人口が少なく、病院経営という意味では厳しい時代でしたね。医療法人清和会という組織を作っていたため、本院と分院の抱き合わせで何とかやり繰りをしていたのですが、時流の流れに乗り切れず、1985年頃から債務が増えていったんです。父の健康の問題もありましたし、1988年に本院を廃院にしました。そして、東長原病院を111床に繰り下げ、再スタートしたんです。私は京都大学の大学院にいたのですが、急遽、呼び戻され、院長職を継ぎました。」
1992年には外来棟を新設し、1993年から透析医療を始める。一部の外来機能を移す形でのリニューアルだった。透析は通院透析の患者さんを前提に、外来棟の上層階に透析室を設けた。1994年には入院透析の専用室を作り、総合的な透析医療を開始した。
「6人の大部屋を4人部屋に改装したことで111床を80床に減床し、入院透析を始めるときにさらに減らして73床にしたんです。私が院長職を引き継いだ当初の宿題は救急よりも地域医療を主体にした病院作りに変えていかないといけないということでした。既に高齢者が増え始めていましたが、この地域は農業をされている方が多かったので、どうしても高血圧症や腎臓疾病が目立っていました。私が勤務していた長浜赤十字病院では外科が腎臓移植を含めた透析診療を担当していたことから、透析医療をここに持ち込めたのです。そういった診療形態がある程度、地域から受け入れていただけたので、透析医療を中心にしながら、一般的な生活習慣病を診ていく病院に変えていきました。」
1995年、阪神淡路大震災に襲われる。長原理事長は当直をしていたという。
「この辺りは震度5強に近い地震でした。1971年の建物で、当時の耐震基準としては良かったのですが、時流に合わなくなっていました。ビルの壁面にクラックが入ったり、手術室の天井壁が歪んだり、よく潰れずに済んだなと思いましたね。医療器具を携え、被災地にも行きましたが、あんな場面で真っ先に必要になるはずの医療機関が機能していなかったのを目の当たりにしたんです。そこで、私どももそういった事態が来ても、病院としての機能を決して損なわず、やれる範囲の医療を提供しようと、建て替えを決意しました。新築にあたっては地域の方々からの長期入院をお願いしたいといった要望にお応えするべく、73床から144床へと大幅に増床することにしました。」
しかし、バブル経済崩壊後であったため、経済環境が厳しく、加えて隣接地の確保や立ち退きの要請などにも時間がかかった。既存のものを利用しながら、スクラップアンドビルドで建て替えを続け、全ての建て替えが終わったのは2010年4月だった。
「病院が大きくなった分、経営を軌道に乗せるのは大変でしたが、病床稼働率がほぼ目標に近づいてきましたので、従来の志のある医療を継続し、地域の皆様に提供していきたいです。開業当時、いらしてくださっていた方々も次の世代になり、私もそういった方々を父との二代に渡って診療をさせていただいています。」
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